追弔御和讃
追弔御和讃
一、
その名を呼べばこたえてし
笑顔の声はありありと
今なお耳にあるものを
おもいは胸にせき上げて
とどむるすべをいかにせん
溢るるものは涙のみ
二、
立ちては昇りのぼりては
哀しく薫ゆる香の香に
かずかず浮かぶ思いでよ
供えし花はそのままに
霊位の座をばつつむなり
清きが上に清かれと
三、
一世の命いただきて
会うことかたき勝縁をば
夢幻となどかいう
うつつの形は消ゆるとも
うつろうものか合わす掌に
契りて深き真心は
「追弔」とは、死者の生前をしのび、その霊をとむらうことです。
愛する家族や親しき方々を失った際にお唱えをさせて頂きます。
誰しも、葬儀や法事に弔問された際には線香を立てたことがあるかと思います。
そこに揺らぐ煙はユラユラと昇り、その煙を観るとこの世が無常であることが、説明なくとも不思議と感じ取れると思いませんか?
この曲を聞かれた方の中に「一世の命いただきて」という歌詞が特別響いたと言って頂いたことがあります。
これこそが尊い気付きなのかもしれません。
無常とは、この世の一切すべてがそのままの姿形を留めることはできないことを言います。
しかし、「どうせ儚い命なのだから」と刹那的に捉えることは大きな間違いであります。
線香の煙はを精進表す
香の揺らぎは精進を示すと云われます。
精進とは、煩悩を絶って仏道修行に邁進することです。
しかしながら、香の揺らぎがなぜ精進を示すのか?と疑問に思われるかもしれません。
実際に線香を立てて眺めてみてください。
火を灯すと、煙はユラユラと揺れながら上に昇って行きます。
扇げば煙は大きく揺らぎながらもまた静かに昇り続けます。
一度灯った線香は、何があっても燃え尽きる最後の時までユラユラと煙を吐き続けるのです。
発心(ほっしん)
曹洞宗の開祖道元禅師は、8歳の時に母を失い、弔いの為に手向けられた香煙を観て無常を悟り、それにより発心したそうです。
発心とは、発菩提心のことであり、菩提心を起こすことです。
つまり、悟りを求めて世の中の人を救済したいと願う心のことであります。
一世の命を頂いた私どもは、どう生きるべきでしょうか?
仏の心と書いて仏心、これをまごころと訳してみます。
「まごころに生きる」と先立たれた方々にそう誓うことが出来たのであれば、それはつまり仏の道を歩むと誓ったことでもあります。
たとえ強風に煽られる時があったとしても、この命燃え尽きるまで「まごころの煙」を絶やすことなく過ごすことが出来たのであれば、あなたの心もまわりの方の心も、角のない円かな心となることでしょう。