検校とは
この地には古くから検校信仰があり、検校堂というお堂が存在していたそうです。
検校(けんぎょう)は、中世・近世日本の盲官(盲人の役職)の最高位の名称。檢校とも書いた。
出典:Wikipedia
お堂が建てられた由来には諸説あり、次のようなものです。
「矢ヶ崎村検校堂略記」には「当所検校堂と申すは、一千余年にも相成り候」という書き出しがあり、この地を訪れた盲人を休ませるために村人は庵室を立てて世話をした。
何年か経て亡くなる際に「私を眼神として祀ってくれたなら、この里に盲人は絶対でない」と遺言を残したことに始まるという説。
この話に近しいのが「諏訪郡諸村並旧蹟年代記」に出てくる、58代光孝天皇(830〜887)の皇子、雨夜尊です。皇子は盲目であり15歳で琵琶を手に旅立たれた、という言い伝えの通りであればその安住の地であったかもしれません。
また、雨夜尊は人康親王(仁明天皇の第四皇子)とも伝えられており、琵琶法師の祖として仰がれている方でもあります。
永禄4年(1561)武田信玄が川中島の合戦の後、目を病み石田伊賀守を通じて祈願させたら、感応(霊験)あらたかだったとの言い伝えがあります。
大阪落城の頃(1615)、豊臣秀吉の前で演奏をしていた盲目の琵琶法師が入住し余生を過ごしたのち、法師が「将来、私を祀ってくれたなら、この里に盲人は出ないと言い残されたという話が口碑されております。
「検校堂略記」
諏訪頼忠の長男、諏訪頼水(1571〜1641)は初代信濃諏訪藩主です。
「検校堂略記」によれば、諏訪頼忠の三男は盲人であり、検校堂に住したとされております。
さらに寛永19年(1642)の話として、お堂に一夜こもって願かけした話も残っておりますから、少なくとも江戸初期の1600年代には検校堂が存在したと考えられます。
上述の通り、様々な言い伝えは残っておりますが、古くから当地に検校堂というお堂は眼病祈祷所としての検校信仰の場として存在していたようです。