春は花
春になりふきのとうが顔を出すと、諏訪の地域にもいよいよ春がやってきたと感じます。
日本には春夏秋冬というハッキリとした四季があることで、季節の移ろいを肌で感じることが出来ます。
山々に囲まれたこの土地に身をおくことで、自然の恵みへの感謝と生かされている自分を改めて感じることが出来ます。
道元禅師は次のような和歌を詠まれております。
春は花夏ほとときす秋は月冬雪さえて冷しかりけり (本来面目)
一見すると四季の美しさを詩っているだけのように思えますが、禅師はこの詩に禅の境涯を表現されております。
「本来の面目」という副題がついておりますが、つまりは「あるがままの自分」ということ。
目に映る景色そのものが自分自身のありようであり、自分自身が移り変わる景色の一部であると詠っているわけです。
これが道元禅師の悟り。
なかなか難解なことですが、我が身に置き換えてみると少し分かる気がしませんか?
私たちはもしかしたら、自分の指で型取ったフレームでしか景色も物事も観ていないのかもしれません。
実際は、型取るポーズを取った自分自身を含めた全てがこの世界。
冬に至らなければ、春の訪れも夏の到来もないのです。
あなたも私も季節を追うごとに、また一歩人生の歩みを進めているわけです。
あるべきように
平安時代の歌人、西行法師は次のような詩を詠んでおります。
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃 西行法師
如月(旧暦2月)望月(満月、15日)の頃に亡くなりたい、とはつまりお釈迦さまと同じ頃に自分も旅立ちたいと詩に詠んだのです。
あと何回桜を眺めることが出来るのか...
それは誰にも分かりませんが、あと何回をどう生きるのかを考える事が、私達にできる「あるべきよう」な生き方なのかもしれません。